東アジア文化都市2019豊島マンガ・アニメ部門スペシャル事業

マンガ・アニメ3.0

世の中が求める女の子像から、少女マンガだからこそ描ける独創性へ
――里中満智子が語る、マンガの世界を守るために歩んだ道里中満智子インタビュー

 本記事は、豊島区役所本庁舎にて2月1日~11日にかけて行われた東アジア文化都市2019豊島マンガ・アニメ部門のオープニング展示「区庁舎がマンガ・アニメの城になる」にて上映されたインタビュー映像の採録である。お話をうかがったのは、クリヨウジ先生、さいとう・たかを先生、里中満智子先生、しりあがり寿先生、夏目房之介先生の5名。インタビューでは、「過去と現在を繋ぎ、未来を想像すること」をテーマに、日本のマンガ・シーンを作り上げてきた作家・マンガ研究者の方々に、「マンガ・アニメと社会・未来」という題材で語ってもらった。
 採録の第1回目は里中満智子先生。少女マンガが日本のマンガ全体にもたらした多様性、そしてマンガが社会の中で次第に「文化」として認められるに至る過程について、未来の表現の可能性とともに語っていただいた。

聞き手:山内康裕、構成:高瀬康司、高橋克則

自分で考える女の子を描きたかった

 私が小さかった頃の少女マンガは“状況”を描く作品が大半でした。主人公が恵まれない境遇に置かれていて「こういう女の子は不幸だ」と判で押した認識によって物語が組み立てられていたんです。読んでいるとまるで、「過酷な状況でも素直に耐えていれば、いつかはきっといいことがあるよ」と説き伏せられているような気がしました。出てくる女の子たちもすぐ泣く子ばかりで、何かというと空を見上げて「お母さん、どうして死んでしまったの……」と涙を流すんです(笑)。少女マンガの多くが、世の中の求める女の子像で溢れてしまっていることに違和感を覚えていました。
 マンガを描きたいと思ったのは「こんなかわいそうな女の子って同情するでしょ」という押しつけが嫌で嫌で堪らなかったからです。女の子は自主性を持っていますし、そもそも男だから女だからと性別では括れないことが山ほどあります。私は、自分で考えて、自分で決断して、自分で道を選ぶ女の子を描きたかったんです。そういったヒロイン像をベースに恋愛ものを描いたら、かわいげのあるドラマには全然ならなくて、「理屈っぽい」や「話が重い」と言われてしまいましたが、読者が支持してくれたおかげで今までやってこれました。

 

『鉄腕アトム』が教えてくれたこと

 マンガは立場の異なる人たちの主義主張を理解しながらドラマを楽しめる表現です。たとえば三人称で書かれた小説であれば読者と登場人物は客観的な距離を保ちますが、マンガはキャラクターのセリフを自分の目で確認しながら読み進めていきます。作者もそれぞれのキャラクターを通して、表情とセリフでドラマを描きます。だからマンガは読者がキャラクターと同じ立ち位置にいて、ものすごく感情移入しやすい表現なんです。立場によって違う言い分のあることが、マンガではすんなりと受け入れられます。私も小学生のときに手塚治虫先生の『鉄腕アトム』を読み、アトムだけでなく敵側のロボットたちの苦しみにも感情移入していました。「こういう社会であってはいけない」と憤りを覚えるほどでしたね。
 当時は松本清張さんの小説が社会派推理小説として高く評価されていた時代でした。犯罪者の気持ちに寄り添って、犯罪が社会の仕組みから生まれるのではないかと考えさせられる内容だったからです。ミステリーでありながら人間を描いていることが支持されていたんです。
 私にとっては『鉄腕アトム』が、まさに同じことをしてくれた作品だったわけです。でも大人は誰も認めてくれませんでした。マンガの地位は低く、PTAや教育委員会は「子どもに読ませてはいけないものだ」という論調でした。それどころか「マンガを捨てよう」とエスカレートして、学校では「ストーブで燃やせ」と言われたこともあります。今の人たちには信じられないでしょうね。でも半世紀前の日本で、実際に起きていた出来事なんです。
 私はまだ子どもだったので、大好きなマンガをどうやって守ればよいのかわかりませんでした。とりあえずマンガ本を大切に残しておいて、将来母親になったら子どもや子どもの友だちに読ませたいと思ってはいましたが、「それだけではダメだ。何かしないといけない」と悩んでいたときに、マンガ家を目指すことをひらめいたんです。本当にマンガ家になれるかどうかはわかりませんでしたが、マンガの味方は一人でも多いほうがいいはずです。マンガの世界を守るための、歩道の敷石の一つにでもなれたらという気持ちで、マンガ家になると決心しました。

 

 

新しいドラマ表現としてのマンガ

 将来はマンガ家になると決めたものの、そのことを親にも友だちにも打ち明けられませんでした。マンガ家を目指している子どもなんて、全校生徒の中で一人いるかどうかという時代でしたから。中学の進路指導のときに意を決して伝えたら、先生からは「正気なのか、目を覚ませ」と諭され、怒った親からは「お前のことは産まなかったと思うようにする」とまで言われました。マンガ家は真っ当な職業ではなく、極一部の変わり者たちが子どもの教育に悪いことをしているという認識だったんです。
 それでも新しいドラマ表現であるマンガが世に受け入れられる日が来るはずだと、私は信じていました。マンガがいつ認められるのか、計算してみたこともありましたね。そのときは、ざっと200年ほどだろうと見込みました。
 いつの時代も新しい表現は大衆娯楽から始まります。当時最も身近だったドラマの表現に映画がありました。映画は1895年にフランスで生まれて、最初は工場の労働者の昼休みや、駅に到着する列車を撮った、いわば「動く写真」でした。それが60年経ったら瞬間芸から哲学まで語れるような表現になったわけですから、マンガも絶対にそうなるはずだと思ったんです。新しい表現なので今はまだ受け入れられていなくとも、次第に作者たちがそれぞれの思いを語っていって、やがては文化として認められる日がくるだろうと。
 200年後と想定したのは、映画とは違ってマンガは子どもが楽しむものだったから、より大きな壁を乗り越える必要があるだろうと、子どもながらに考えたからです。つまりマンガが世に認められる頃には、私はもう生きてはいないことが前提でした。私自身はマンガがごく普通のものとして受け入れられた世界を見ることはできないけれど、いつかそんな時代が訪れるはずだから、最期までマンガに関わっていきたい……それが当時の私の気持ちでした。

 

「憧れの」貧乏生活?

 当時は情報がなかったので、マンガ家たちがどんな生活を送っているのかさえわかりませんでした。頼りになるのはマンガ雑誌の隅にあった自画像くらいでしたが、そこではどの先生もすごく貧しそうに描かれていたんです(笑)。服はツギハギ、いつもお腹を空かせていて、部屋の電気は裸電球、さらに机はリンゴ箱という、貧しさの象徴みたいなイラストだらけでした。それでも私は「先生たちはお金が儲からないのに、あんな感動する作品を一生懸命描いてくれているんだ!」と感動していたんです(笑)。世間から一方的に叩かれても、お金目当てではなく作品のために描き続けている清貧なマンガ家たちに憧れて、私も是非仲間入りしたいという気持ちを高めていました。
 だから講談社の新人賞を受賞して、編集者さんに「好きなマンガ家のところに連れて行ってあげるよ」と言われたときは大喜びでした。それなのに、ちばてつや先生の家にお邪魔したら、立派なお家に住んでいるんですよ。大きなセント・バーナードがいて、さらに車がベンツ! 60年代半ばにベンツですよ。「なんだ、お金持ちなんだ……」とガッカリしちゃいましたが(笑)、それでもすぐ「こんなにいい生活ができるほど、多くの読者が支持しているんだ」と気持ちを切り替えました。

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