東アジア文化都市2019豊島マンガ・アニメ部門スペシャル事業

マンガ・アニメ3.0

中国におけるマンガはどうなっているのか(前編)
――プロダクション方式、Webマンガ、メディアミックス黄亦然インタビュー

 中国のコンテンツ産業が成長を続ける一方、中国のマンガが日本で読まれる機会はまだまだ少ない状態が続いている。中国マンガを知りたいと思っても、その機会すら限られてしまっているのが現状だろう。
 そこで今回は、「一般社団法人マンガジャパン」「アジアMANGA運営本部」「デジタルマンガ協会」で事業統括部長を務め、中国のマンガ史・マンガ事情にも通じる黄亦然氏に、いまだ知られざる中国におけるマンガをめぐる現状を紐解いてもらった。

 

聞き手:高瀬康司、山内康裕、構成:高瀬康司、高橋克則

「動漫」は国境を越える


――はじめに、中国で生まれ育った黄さんが、日本のマンガ・アニメに触れたきっかけについて教えてください。


 私は1987年生まれですが、その時期に中国で育った子どもたちの多くは、日本のアニメを観て育ったんですよ。私も3歳のときに『鉄腕アトム』を観ていたぐらいです。まずはじめにアニメで日本のコンテンツに触れて、「もっと作品のことを知りたい!」と思った子がマンガを読んでより深くハマっていくという流れが一般的でした。


――地域によるとは思いますが、1990年代当時、マンガはどういった場所で売られていたのでしょうか?


 私の生まれたハルビンでは、普通の書店でのマンガの取り扱いはなく、個人経営の古本屋さんのような小さなお店か、本を大量に積んだ台車を引いて商売をしている業者さんから買っていました。当時の中国は、ほぼ海賊版しか存在しないような状況でしたが、まだ幼かったのでマンガが正規品かどうかというのはよくわかっていませんでしたね。ただ、まったく違う作品のキャラクター同士が活躍するような、中国の作家が勝手に描いた二次創作的なマンガも並べて置いてあったりしたので、それには子ども心に違和感を覚えてはいたのですが……(笑)。


――(笑)。ちなみに黄さんが好きだったマンガは何ですか?


 中国にいた頃に好きだったのは、いわゆるジャンプ黄金期の作品が中心でした。日本でジャンプ黄金期のファンというと、私より上の世代の人たちが中心ですが、当時の中国はタイムラグがあって少し遅れてブームが来たんですよ。
 またそのように日本のマンガに慣れ親しんで育ったため、小さい頃からマンガ家になりたいとも思っていました。将来の夢がマンガ家という人は、私の世代には少なくなかったと思います。


――その後、黄さんがはじめて日本に来たのはいつ頃になるのでしょう?


 1998年に両親の仕事の都合ではじめて来日して、日本の小中学校に通っていました。2003年には帰国して高校では美術の勉強をしていたのですが、大学ではマンガを専門的に勉強したくて、今度は単独で来日し大阪芸術大学に入りました。


――中国には、マンガを学べる教育機関はなかったのでしょうか?


 いえ、中国にもマンガを扱う大学はあります。しかし「動漫」という言葉で、マンガとアニメが一括りにされる傾向にあったんですよ。また「動漫」は「動画」と「漫画」、つまりアニメとマンガを指す言葉ですが、先に「動」が来ているように、アニメの存在感が大きくて、大学教育も中心はアニメでした。私はアニメではなくマンガの勉強がしたかったので、専門コースがある大阪芸大を選んだわけです。


――「動漫」については、中国出身のアニメーション研究者である陳龑さんのインタビューでも話題になりました。幅広い意味を持ち、その言葉の成り立ち自体が研究対象になりうるとのお話でしたが。


 そうですね。語源については諸説ありますが、1998年頃に日本カルチャーを紹介する雑誌が「動漫」という言葉を使い出し、その後マンガ雑誌やゲーム雑誌などへ徐々に広まっていった言葉です。今ではアニメ、マンガ、ゲームだけでなく、コスプレなどまで含めたポップカルチャー全般、いわゆる二次元コンテンツの周縁に少しでも触れていれば「動漫」に分類されるケースが増えました。

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