東アジア文化都市2019豊島マンガ・アニメ部門スペシャル事業

マンガ・アニメ3.0

ヘタウマはパンク・ロックでありわび・さびである
――しりあがり寿が語る、娯楽として始まったマンガのこれからしりあがり寿インタビュー

 本記事は、豊島区役所本庁舎にて2月1日~11日にかけて行われた東アジア文化都市2019豊島マンガ・アニメ部門のオープニング展示「区庁舎がマンガ・アニメの城になる」にて上映されたインタビュー映像の採録である。お話をうかがったのは、クリヨウジ先生、さいとう・たかを先生、里中満智子先生、しりあがり寿先生、夏目房之介先生の5名。インタビューでは、「過去と現在を繋ぎ、未来を想像すること」をテーマに、日本のマンガ・シーンを作り上げてきた作家・マンガ研究者の方々に、「マンガ・アニメと社会・未来」という題材で語ってもらった。
 採録の第3回目は『真夜中の弥次さん喜多さん』などヘタウマと呼ばれることもある独特な作風が魅力のマンガで知られるしりあがり寿先生。物語をめぐる日本と海外の差異から、ヘタウマ・不条理ギャグの魅力、そしてこれからのマンガが担うべき課題まで、独自のマンガ観を展開していただいた。

聞き手:土居伸彰、構成:高瀬康司、高橋克則

ヨーロッパと日本のマンガの違い

 

 日本とヨーロッパのマンガでは、社会との関わり合い方に大きな違いがあります。19世紀のヨーロッパのマンガは、民衆に向けて社会的なトピックへの理解を促すものでした。マンガで世の中の情勢をわかりやすく示せば、文字が読めない人であっても、戦争の原因や革命の意義を理解できるからです。マンガが大衆を社会参加させるためのツールとして扱われていたわけです。
 一方、同じく19世紀の日本ではマンガは人々を楽しませるものでした。葛飾北斎の浮世絵は娯楽として親しまれていましたし、それから数百年がたった今でも、日本のマンガは基本的にはエンターテインメントとして描かれています。日本の物語産業がここまで成長したのは、娯楽としての下地があったからでしょう。
 マンガ・アニメ・ゲームは、「ここではないどこか」の世界を楽しんでもらう産業です。出版業界だけを見ると斜陽に思えますが、物語産業自体はとてつもなく大きくなっています。たとえばハロウィンの日には、街がキャラクターになりきった人たちであふれかえりますよね。昔であれば、フィクションは何とか現実を模倣しようと躍起になっていましたが、今では逆に、現実のほうが架空の物語世界に近づこうとしています。人々が物語を求める力はそれほどまでに強くて、「物語は現実よりも楽しい」という人々が多いのかもしれません。

 

「作品」「作者」はもう要らない?

 

 物語の作り方も日本と海外では異なっています。海外では工場のようにシステム化されていますが、日本では作家が勝手に育っていて、どこか放牧場のようです。特にマンガは一人でも手軽に描けるので、いろんな作品がぽこぽこと出てきて、良いものがあれば皆が群がり、アニメ化やゲーム化で物語を広げていきます。注目を集めたものはどんどん大きくなって、ダメなものはすぐに枯れてしまう。物語のジャングルのようです。
 マンガ・アニメ・ゲームはキャラクターに互換性があるため、与えられた設定の中で自由に物語を組み立てることができます。読者の関心はもはや閉じられた作品の中だけでは満足できなくて、設定された世界観、キャラクターで自由に遊べる「遊園地」を必要としているのかもしれません。もはや従来の「作品」という枠組みではとらえられない広がりを感じます。
 そもそもマンガは連載が長いので一つのパッケージとして評価するのが難しい。今はメディアミックスも盛んなため、どこからどこまでが作品なのか、より一層わかりにくくなっています。そんな状況では「作者」さえ代替可能になってくる。求められるのは、世界観をコントロールする人間。海外ではディズニーやマーベルがキャラクターや権利を厳しく管理していますが、日本にも物語界の秋元康みたいな人が出てきて、マネジメントするようになったら面白いかもしれませんね。

 

クダラなさで社会を試す

 

 マンガの中身も日本とヨーロッパでは差が見られます。日本では風刺画を描くにしても、相手をストレートに批判することはあまりありません。それは日本人の優しさであり、臆病さでもあります。海外の風刺画は過激で、相手をこんなにメチャクチャに描いていいのかと思うぐらいひどいものがたくさんあります。それが原因でテロが起きたこともありました。日本ではそういった風刺は育ちませんでしたが、代わりに生まれたのがナンセンスや不条理です。直接的な描写を避けることで、一体何を笑っているのかがはっきりしない、コンセプチュアルな方向へ表現が進んでいきました。
 僕もダメな人を晒し者にするような笑いは苦手で、他人から呆れられたり驚かれたりするような、クダラないことをやりたいタイプの人間です。その気持ちは子どものイタズラ心と一緒なんですよ。子どもが親の前でふざけるのは「ここまでやっても許してくれるかな?」と試しているからですよね。僕も社会に対して子どものように振る舞って、コミュニケーションを取っているつもりなんです(笑)。怒られる手前ギリギリのことをやって、その表現が許されることで社会の寛容さを感じているんです。やっぱり自由で安定した社会がないと、クダラないことはできませんからね(笑)。

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