東アジア文化都市2019豊島マンガ・アニメ部門スペシャル事業

マンガ・アニメ3.0

ヘタウマはパンク・ロックでありわび・さびである
――しりあがり寿が語る、娯楽として始まったマンガのこれからしりあがり寿インタビュー

日本のヘタウマ=わび・さび?

 

 1970年代に「ヘタウマ」という事件がありました。もっとも衝撃的だったのは、湯村輝彦さんと糸井重里さんが『ガロ』に発表した不条理マンガ『情熱のペンギンごはん』です。それまでの滑らかな描線で表現されたマンガとはまったく異なる作風で、「マンガはうまくなければいけない」という常識が覆されるエポックメイキングな作品でした。
 同時期、イギリスではセックス・ピストルズがデビューしてパンク・ロックが生まれました。ヘタウマとパンクは実は同じものであって、どちらも「コンチクショウ!」とか「バカ野郎!」とかいった激しい感情を人に伝えるときには、必ずしも上手な絵を描いたり、丁寧な演奏をする必要はないということを示したわけです。むしろ荒々しくて下手なほうが気持ちを揺さぶるんだと。うまければ良いわけではないという新たな可能性は、70年代末から一気に広がりを見せます。
 2014年には、日本のヘタウマ作家の仕事を紹介する「MANGARO」展と「HETA-UMA展」がフランスで開催されました。そこでは日本とフランスの作品を一緒に展示してもらったのですが、同じヘタウマといっても海外のマンガ家は攻撃的なんですよ。反社会的なモチーフの作品が多くて、社会のルールには縛られないという反抗的なメッセージが伝わってくる。でも日本人のヘタウマは、どこか情けなくてダメな感じなんです。絵からも「ごめんなさい。すみません」という申し訳なさが漂っていました(笑)。
 両者の違いを体感したときに、もしかしたらヘタウマは「わび・さび」や「もののあはれ」のような、日本の伝統的な儚さを表現した手法に繋がっているのではないかと気付きました。僕が2018年に行った個展のテーマを「わび・さび・ゆる・ダメ」にしたのはそのためです。
 ヘタウマとは要するに「未熟」であって、「熟成」に向かって成長する余地が残されている状態です。でも僕はもう60歳になって下り坂なわけですから、「未熟」と言うよりはむしろ「劣化」と言ったほうが正しい。そしてその「劣化」を、むしろいいことだと受け入れられるような作品を手がけたい、という気持ちが年々強くなってきています。言うなれば軍艦島みたいなものです。軍艦島には、人が住めなくなって朽ち果てていくからこそ引き寄せられる魅力があります。日本全体が軍艦島化していく中で、「劣化」に一つの価値を与えていきたいと思うんです。

 

「ただのマンガ」と気付かせてくれる表現

 

 新聞マンガには社会風刺が込められている作品が意外に少なくて、ファミリー向けが中心です。それは皆が新聞を読む時代があった名残ですが、僕が朝日新聞で『地球防衛家のヒトビト』を連載するにあたっては、もう新聞なんて世の中を良くしたいと内に秘めている人しか読んでいないのではないか、という思いがありました。それで、地球を守ろうとしているけれど、どこか空回りをしてしまう人たちを主人公にしたんです。
 『地球防衛家のヒトビト』では一定の思想的立場を取らずに、ごく普通の人の視点から疑問を呈するという姿勢を意識しました。今はすぐに「右」だ「左」だとレッテルを貼られてしまいますが、現実にはそんな簡単に二分できないことが山ほどあります。そのため連載では「新聞にこんなものを載せてしまって大丈夫だろうか」と思うぐらい、紙面にそぐわないネタも描くようにしました。曲がりくねった山道を走り続けなければいけない先の見えない時代ですから、あるときは左に、あるときは右に寄ってみて、ちょうどいい道を探さなければいけません。僕自身が右往左往して感じた疑問を新聞マンガとして形にしたかったんです。
 そういった作品になったのは、僕が何かに夢中になったり、心酔したりすることが嫌いなせいでしょうね。できの良い物語の世界にうっとりすることは、いわば目隠しされているようなもので怖いことなんですよ。「宗教」にしろ「国家」にしろ物語の中に取り込まれることに反射的な警戒感を感じる世代なのかもしれません。そのせいか僕は作品に「たかがマンガなんだよ」と夢を覚ますようなメタな表現を入れるのが好きです。
 それは『天才バカボン』で読んだ「実物大マンガ」の影響が強いのかもしれません。70年代後半に赤塚不二夫さんが見開きページを丸々使ってバカボンパパの巨大な顔を描くという表現をしていて、なぜだかわからないのですが僕は大笑いしてしまいました。今振り返ると、あの実験もマンガであることをバラしてしまう行為ですよね。やっぱり大切なのは現実ですから「あんたが見ているのはただのマンガだよ」と気付かせてくれる表現が大事なんだと思います。

 

売れることがマンガの唯一の価値だった

 

 ここまでマンガが普及すると、19世紀のヨーロッパのように日本のマンガも社会的側面を担わざるを得なくなると思います。特に売れている作品には秘密の力が隠されていて、社会の何かしらの要素が反映されていることが多いんです。作品が流行っているときは「運良くヒットしただけだろう」と侮られがちですが、ブームが過ぎて冷静になって読み返してみると、皆が顕在化できていなかった真実を描いていたことがわかる。だから売れることはとても重要だと思っているのですが、その一方で最初から売れることだけを狙う作品ばかりになっても困る。
 かつてのマンガには「売れれば何をしてもいい」という自由さがありました。売れているからこそ新しい実験ができて、面白い表現も生まれていた。しかしそれは裏返せば「売れなかったら何もできない」ということでもあります。マンガは果たして「売れなくても良いものは良い」という価値観を育てて来れたのか、疑問に感じることがあります。
 ほかの文化には「お金にはならないけれど残すべきだ」という主張をする人たちがいました。正直に言ってしまえば、僕にはそういった文化を見下していたところがあった。「どうせ博物館行きじゃないか」とバカにしてきた。けれども内心では、お金だけで量ることのできない価値を見出せていることにうらやましさを感じてもいたんです。

 

マンガで理想の世界を描く

 

 今後は人を喜ばせる娯楽やお金を稼げる産業を基盤としながらも、さらに自由で斬新なビジョンがマンガから生まれるといいな、と思います。中でもマンガがこれだけの力を持つ時代になったからには、「こういう世界が理想なんだ」というポジティブなメッセージがマンガから出てきて、現実の社会が変わったら素晴らしいと思います。 こんなことを言うと大げさかもしれませんが、もし宗教といった大きな物語に代わるものがあるとすれば、今の日本にはマンガしかないんじゃないですか? マンガが未来の社会として選びうるような理想的な世界を描けたら、それは本当に素晴らしいことだと思います。
 そして、もしそういうビジョンが出てきたら……ボクは全力でそれをおちょくりたいと思います(笑)。

 

聞き手:土居伸彰、構成:高瀬康司、高橋克則

 

しりあがり寿(しりあがり・ことぶき)
1958年、静岡県生まれ。代表作に『ヒゲのOL藪内笹子』シリーズ、『真夜中の弥次さん喜多さん』シリーズ、『地球防衛家のヒトビト』など。ギャグマンガ、ストーリーマンガ、幻想的・文学的な作品、さらに映像やアートなど多方面に活動の場を広げる。2000年に『時事おやじ2000』『ゆるゆるオヤジ』で第46回文藝春秋漫画賞、2001年に『弥次喜多 in DEEP』で第5回手塚治虫文化賞マンガ優秀賞、2011年に『あの日からのマンガ』で第15回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞を受賞。2014年、紫綬褒章受章。

 

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