東アジア文化都市2019豊島マンガ・アニメ部門スペシャル事業

マンガ・アニメ3.0

アニメはどう語られてきたのか(前編)
――氷川竜介が語る、人はなぜ感動するのか、
その感動の原点をいかにして残すのか氷川竜介インタビュー

 日本アニメ史上における初の30分TVシリーズは言わずと知れた『鉄腕アトム』、1963年のことである。それに対して1958年生まれの氷川竜介氏はまさに、物心がつく前後からそれに触れ出した、TVアニメ第一世代のアニメ研究家だ。各種アニメ雑誌の登場以前、『月刊OUT』の『ヤマト』特集号(1977年)でライターデビューしたという経歴も、アニメライター第一世代と言えるものだろう。
 今回、そんなTVアニメの発展と並走してきた氷川氏に、「アニメを語ること」をテーマにお話を聞いた。そのキャリアを順に追いながら、アニメを取り巻く社会的状況の変化やそのときどきの体験・課題をうかがうことを通じて、アニメをめぐる言説の歴史を浮き彫りにする。
 この前編では、大学生時代のライターデビュー前、アマチュア時代の研究・交流などその活動の原点について語ってもらった。

 

聞き手:高瀬康司、土居伸彰、構成:高瀬康司、高橋克則

アニメや特撮はやがて消えてしまうものだった

 

――今回は、氷川さんのキャリアを辿りながら、「アニメを語ること」が歴史的にどのように変化していったのかをうかがえればと思います。まず氷川さんがはじめて執筆活動に携わったのはいつ頃になるのでしょうか?

 

氷川 1974年、高校2年生のときに怪獣同人誌『PUFF』へ寄稿したのが最初です。ただし伝えたいことがあるから書いたというよりも、「消えてしまう〈アニメ〉や〈特撮〉」を繋ぎとめておきたい、という必死な気持ちが第一でした。これは今ではわかりづらい感覚だと思います。当時のアニメや特撮、特にTV番組は、一度放送されたら再放送も不確かで、今後観る機会がないまま消え去ってしまうものだったのです。家庭用録画機器のベータマックスがソニーから発売されたのは76年ですし、当初は高価すぎて手が届きませんでした。そもそもTVアニメは63年の『鉄腕アトム』、TV特撮は66年の『ウルトラQ』から始まってまだ10年ぐらいですから、ジャンルそのものがいつなくなってもおかしくない危ういものだったのです。

 

――言葉にしなければ残らない、なかったものにされてしまうかもしれないという危機感があったわけですね。

 

氷川 もちろん当時もアニメーションを研究している先達の評論家、研究家はいましたが、対象はあくまで〈アニメーション〉であって、私たちが好きな〈アニメ〉は格下に見られていました。芸術性が高く、実験精神が備わった〈アニメーション〉ならともかく、TVアニメは通俗的でビジネス優先、語るに価しないものという雰囲気です。
 世間の認識も今とはまったく違います。当時は「小学校の高学年にもなって子ども向け番組を見るなんて恥ずかしい」から、成長したら「卒業」しなければいけなかった。番組も消えて視聴者も入れ替わる「消費物」でした。商業ベースのアニメや特撮が文化や芸術になり得るという考えは、誰も持っていない。それが70年代前半のアニメや特撮を取り巻く状況でした。
 当時の私は、『ルパン三世』(1971-72)、『海のトリトン』(1972)、『科学忍者隊ガッチャマン』(1972-74)、『宇宙戦艦ヤマト』(1974-75)など、年を追うごとに新たな表現が生み出されていく過程をリアルタイムで体験し、「これは語るに足りる何かがある」という確信を持つようになっていました。それなのに、社会ではアニメや特撮が無視されてしまっている――そんなフラストレーションを抱いていたのが自分だけはでないと教えてくれたのが、『S-Fマガジン』の読者投稿コーナー「てれぽーと欄」です。SFの世界も小説中心で「アニメや特撮はSFではない」という偏見は大きく、SF映画の大半も地位が低かったのですが、読者から特撮映画も評価すべきだという声があがりました。そこからファン同士が文通して交流を深め、やがて同人誌を作る流れが生まれた。その時代の雰囲気やプロセスは、中島紳介さんの『PUFFと怪獸倶楽部の時代――特撮ファンジン風雲録』(まんだらけ、2019年)に詳しく書かれています。

 

――1975年に発行された同人誌『怪獸倶楽部』には氷川さんも参加されています。

 

氷川 74年の夏から、有志が集まっていた怪獸倶楽部の会合に顔を出すようになりました。中心人物は、当時円谷プロダクションのプランナーだった竹内博さんという著名な方です。『少年マガジン』のグラビアや『怪獣図鑑』で著名な編集者・大伴昌司さんの最後の弟子にあたり、『S-Fマガジン』にも酒井敏夫というペンネームで映像の記事を執筆されていました。作品研究や書誌学を実践的にやられていて、『怪獸倶楽部』の記事は『キネマ旬報』に転載されていても問題ないほどのレベルにしたかったと、その志の高さはあとでわかりました。
 会合にはいろいろな人が集まっていて、たとえば『ウルトラマン』なら「実相寺昭雄の演出はここが違う」という話ぶりに衝撃があったのです。文献が子ども向け怪獣図鑑ぐらいしかない時代でしたから、極端な話、特撮映画は何もかも円谷英二が進めていた、なんて思い込みがあるわけです。こんな分析的な見方があるのかと、まずそこから刺激を受けましたね。そうした先達との交流から、アニメや特撮には集団制作ならではの面白さがあり、分野ごとに多彩な作家性が宿っていることに気づくことができました。
 まず影響を受けたのは、リスト化してスタッフに注目する作業です。各話のクレジットをTV画面からメモを取りますが、アニメなら脚本、演出、美術、作画監督ぐらいしか転記できません。ただそれをずっと続けていくと、内容のよし悪しとスタッフの名前のリンクが浮かぶようになる。ロボットアニメなら「斧谷稔の絵コンテの回は目が離せない」みたいな。さらに「『勇者ライディーン』後半には斧谷稔の名前が多い。富野喜幸(現・由悠季)監督から長浜忠夫監督に交代したあとも、ペンネームで続けていたのではないか?」と、そんな推理も可能になりました。今はスタッフリストもネット検索できますが、自分の手と頭を全開にして照合した経験は大きな財産です。作品に宿る本質を文字どおり「手探り」できたので、それが分析の基礎体力になっていると思います。

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