東アジア文化都市2019豊島マンガ・アニメ部門スペシャル事業

マンガ・アニメ3.0

新聞でアニメはどう語られてきたのか(前編)
――朝日新聞・小原篤記者が語る、アニメと公共性小原篤インタビュー

 アニメがメディアで取り上げられることが、珍しい事態ではなくなって久しい。それはテレビ番組や一般誌は言うまでもなく、よりアニメに縁遠いと思われてきた新聞においても同様だろう。
 ではアニメは「新聞」というマスメディアにおいて、いつから、どのように語られてきたのか。90年代から朝日新聞紙上でアニメの記事を先導し、2007年より「小原篤のアニマゲ丼」という記名コラムを毎週連載中でもある朝日新聞の小原篤記者に、「アニメと新聞」というテーマでお話をうかがった。

 

聞き手:高瀬康司、土居伸彰、構成:高瀬康司、高橋克則

1997年にアニメが変わった

 

――今回は、朝日新聞でアニメを取り上げる記者として、20年以上にわたり最前線に立たれ続けてきた小原さんに、「新聞とアニメ」をテーマにお話をうかがえればと思います。まずはじめに、小原さんがアニメに触れたきっかけ、そして新聞記者になられるまでの経緯を簡単にうかがえるでしょうか。

 

小原 アニメは物心つく前から大好きで浴びるように観てきました。私は1967年生まれですが、当時は今と違い、夕方の時間帯に、アニメや特撮が再放送も含めてたくさん放映されていたんですね。『ルパン三世』や『宇宙戦艦ヤマト』、『機動戦士ガンダム』は再放送でハマり、リアルタイムで特にのめり込んだのが押井守監督の『うる星やつら』でした。『うる星』の放映は、81年10月から86年3月までだったので、中学2年生からちょうど高校卒業まで。その意味で、私の青春とも言える作品です(笑)。
 86年に大学に入ってからは、文芸サークルの「新月お茶の会」でアニメの評論を書いていました。SFやミステリ、ファンタジーなどの創作が中心のサークルでしたが、評論を書く部員も何人かいたんです。私はシャーロック・ホームズが大好きだったので、当初はホームズ研究を書くつもりで入会したのですが、最終的にはアニメについて書いた文章のほうが圧倒的に多かったですね(笑)。

 

――それらはどこで発表されていたのでしょうか?

 

小原 『月猫通り』という、サークルが毎年数冊ずつ刊行していた同人誌です。最初に書いたのは押井守監督の『天使のたまご』の映画評、最後は原稿用紙300枚の宮崎駿監督論を手がけました。また評論だけでなく、87年のユーリー・ノルシュテイン監督と高畑勲監督の対談や90年の第3回「広島国際アニメーションフェスティバル」をルポしたりと、よくよく考えてみると、その頃から今の仕事と変わらないことをやっていましたね(笑)。在学していた5年間の執筆量は、合計で原稿用紙2000枚ほどになります。
 そんな学生だったもので、卒業後もものを書く仕事がしたいと、就職活動ではその実績をアピールして(笑)、91年に朝日新聞に入社しました。

 

――当時、アニメが新聞で取り上げられることはあったのでしょうか。

 

小原 ありはしましたが、今のように評論やスタッフのインタビューが掲載されるのではなく、社会的な関心事とのつながりがあるときに取り上げられるだけでしたね。70年代であれば、『あしたのジョー』の力石徹の葬式が実際に行われたときや『ヤマト』ブームで映画館に行列ができたときなどです。社会的なプレゼンスとして、アニメがまだ大きな地位を占めてはいなかったですから。
 新聞社は古いメディアなので、文化欄は文学や思想や美術、芸能欄は映画や演劇や音楽などが中心で、おそらく社内でも、アニメという新しい表現をどう扱えばいいのかわからない状態だったのでしょう。マンガですら、文化部の中で美術担当と文芸担当のどちらの記者が扱えばいいのか定まっていなかったほどです。

 

――そういった風潮に変化が訪れるのはいつ頃からなのでしょうか?

 

小原 まずは大きかったのは97年でしょうね。宮崎駿監督の『もののけ姫』が邦画の興行記録を塗り替える国民的大ヒットとなり、『新世紀エヴァンゲリオン』の劇場版も社会現象を巻き起こしました。
 特に『エヴァ』はアニメファンの枠を越えて、学者やアーティストなど、いわゆる文化人からも言及されることが多かったですからね。一躍ときの人になった庵野秀明監督が週刊誌『AERA』(朝日新聞出版)の表紙を飾ったときは私もビックリしました(笑)。
 またこちらはいいニュースではありませんが、12月には「ポケモン・ショック」と呼ばれる、『ポケットモンスター』を観た子どもたちが光の明滅によって発作を起こし、大勢が病院に運ばれるという事件もありました。
 一記者として、97年はアニメに対する社会的な注目が一段階上がった年だった、という実感があります。

 

――小原さんも何か記事を書かれたのでしょうか。

 

小原 はい。当時は名古屋本社の社会部の所属でしたが、『もののけ姫』のエンドロールに、「効果音取材協力 愛知県鳳来町 加藤隆雄」という、名古屋と関係のありそうなクレジットを発見して取材を行いました。加藤さんは『もののけ姫』の音響スタッフに、効果音が録れそうな静かな森の場所を紹介した方だったのですが、関係者にお話を聞いていくと、その一行のクレジットの裏に思わぬドラマが隠れていることが見えてきたんです。その顛末をまとめた記事は、朝刊の社会面に大きく取り上げられました 1
 さらに97年12月には、『無敵超人ザンボット3』以来、『ガンダム』シリーズや『勇者』シリーズなど脈々と続いてきた名古屋テレビ製作のアニメ枠で「ロボットものをやめる」というニュースを記事にしたところ、これがなんと名古屋本社版の夕刊1面トップに掲載されました 2 。朝日新聞社でアニメが1面トップを飾ったのは、これがはじめてのことだろうと自負しています。紙面にどの記事を載せるかを決めるのは、記者ではなくデスクの仕事なので「『ガンダム』は名古屋テレビ製作だから、いわば名古屋生まれなんです!」と必死に口説き落としましたね(笑)。
 そういった経験を通じて「アニメも新聞記事になるんだ」という手応えを感じるようになりました。

 

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