東アジア文化都市2019豊島マンガ・アニメ部門スペシャル事業

マンガ・アニメ3.0

持永只仁・川本喜八郎から「リラックマとカオルさん」まで
――日本の人形アニメーション史を探る細川晋

 2019年9月16日、としま産業振興プラザで東アジア文化都市2019豊島のパートナーシップ事業「雑司が谷が発祥地!中国と日本の人形アニメーションの創始者・持永只仁と、川本喜八郎」が行われた。日本の人形アニメーションのレジェンドであり、今年生誕100年を迎えた持永只仁監督が、中国から日本に帰国し1955年に立ち上げた人形映画製作所が、豊島区は雑司が谷にあったことに端を発する上映会&シンポジウムである。
 立ち見の出た作品上映につづくシンポジウムでは、川本喜八郎研究家の壱岐國芳氏をコーディネーターに、アニメーション作家の和田敏克氏、細川晋氏、そして持永只仁監督の長女である持永伯子氏が登壇。その偉大な功績が貴重な資料を交えながら再確認された。
 では、そんな持永監督・川本監督の培ってきた技術や情熱は、現在のシーンへどのように受け継がれているのだろうか。
 シンポジウムのパネリストの一人でもあった、アニメーション作家/東京工芸大学芸術学部アニメーション学科助教の細川晋氏に、日本における人形アニメーションの歴史について、2019年現在に至るまでの見取り図を素描してもらった。

(編集部)

はじめに

 9月16日、としま産業振興プラザで行われた「雑司が谷が発祥地!中国と日本の人形アニメーションの創始者・持永只仁と、川本喜八郎」。

 

 日本の人形アニメーションの源流である持永只仁さんと、その教えを次の世代に繋いだ一人、川本喜八郎さんの2名に焦点を当てた貴重な機会に会場は大入りとなり、基調講演をされた和田敏克さんによる雑司が谷の人形映画製作所とMOMのお話や、持永さんの長女の伯子さんによる中国でのアニメーション映画製作のお話に、来場された方々は真剣に耳を傾けていらっしゃいました。

 

 第一部で上映された川本監督作『道成寺』(1976年)、持永監督の『ちびくろ・さんぼのとらたいじ』(56年)『こぶとり』(58年)を、初めてご覧になられた方も多かったのではないでしょうか。持永さんが亡くなられて20年。川本さんが亡くなられて9年。年月が過ぎた今でも、その薫陶を受けた方々の手を通じて、人形アニメーションの現場に熱量が絶えず残り続けています。

 

 日本のアニメーション史を語る場合、1960年代、草月会館を中心に活躍したクリヨウジさん、真鍋博さん、柳原良平さんによる「アニメーション3人の会」、70年代に川本喜八郎さんと岡本忠成さんによって行われた「川本+岡本パペット・アニメーショウ」、80年に東京造形大学と武蔵野美術大学の学生を中心とした「アニメーション80」や同世代の他の地域のグループ活動など、各年代を代表する大きな動きが取り上げられます。

 

 しかし筆者がアニメーション制作を始めた90年代終盤から2000年代前半は、ちょうどそういった大きなうねりが止み、至る所から独自に学んだ「個人」が発現し始めた時期だったと思います。今でこそ個人作家が多く出てきた時代としてひとかたまりに表されるこの世代は、参考にできる上の世代の作品を見る機会が多くありませんでした。現在数多くあるアニメーションを専門的に学ぶことのできる美術大学の学科や専攻もほぼ存在せず、今大学で教えている多くの教員がまだ教育に携わっていませんでした。撮影機材もフィルムやビデオの時代が終わり、パソコンを使用したデジタル制作が始まる直前でした。

 

 そのため当時の学生は暗中模索の中でアニメーション制作を始めましたが、逆にそれが現在に続く多様なアニメーション表現につながった側面もあると思います。

 

 今回この文章では、そういった90年代から現在までの日本の人形アニメーションに対して、関東中心で、かつ駆け足ではありますが、筆者が知ることや感じたことを軸に構成しました。

 

90年代

 サークルによるアニメーションのムーブメントを牽引した世代がプロとして活躍し始めていた80年代中盤から90年代はまさにテレビ全盛期。とんねるずの『ガラガラヘビがやってくる』MV(92年)などを手がけた森まさあきさんや、石田卓也さんの作品といった粘土を使用したクレイアニメーションが強く印象に残ります。

 

 さらに映画の特殊効果として人形アニメーションを目にする機会が多くありました。なかでも、持永さんのもとでアニメーションを学び、現在まで活躍されているアニメーターの眞賀里文子さんは、映画・CMだけに留まらず『遣唐使物語』(99年)や『ミス・ビードル号の大冒険』(03年)など様々な作品制作に携わっており、日本の人形アニメーションの根源を、90年代を超えて今に繋ぐ体現者であると思います。

 

 一方で岡本忠成さんが90年に早逝され、一つの偉大な火が消えました。岡本さんは持永さんのMOMプロダクションに勤め、その後、株式会社エコーを設立。NHKみんなのうた『メトロポリタンミュージアム』(84年)や星新一ショートショートを作品化した『花ともぐら』(70年)をはじめ、『南無一病息災』(73年)『おこんじょうるり』(82年)など多彩な手法でアニメーションを作られた方です。その遺作『注文の多い料理店』は盟友であった川本さんによって完成され91年に公開されました。

 

 1994年、NHKで人形(クレイなども含む)アニメーションに焦点を当てたプログラム「プチプチアニメ」が始まります。現在でも続く保田克史さんの『ロボットパルタ』(94年)や伊藤有壱さんの『ニャッキ!』(95年)。野村辰寿さんの『ジャム・ザ・ハウスネイル』(96年)といった作品が発表され、当時の子供達に強い印象を残していきます。

 

 97年には新潮文庫のキャンペーンで「Yonda?Movie」が発表されます。手がけたのは人形アニメーションの傑作CMカップヌードル『hungry?』シリーズ(92年~95年)の大貫卓也さん、中島信也さんでした。

 

 さらに98年。合田経郎さんによって生み出された、現在世界的にも有名な『どーもくん』は、岡本さん、川本さんのもとでアニメーターを務め、数多くのCM作品などを手掛ける峰岸裕和さんの手で命を吹き込まれました。

 

 またテレビとは少し違う視点で見ると、94年に『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』が公開されて話題に。96年には『ウォレス&グルミット』シリーズが日本公開されました。ニック・パークによる同シリーズはすでに日本国内の映画祭でも発表されていましたが、愛くるしいキャラクターや洒落た小道具などが映画祭などに足を運ばない一般客の心にも届いたのではないでしょうか。そしてこれらの作品に創作意欲を掻き立てられた人もいたのではないでしょうか。

 

 1999年、持永只仁さんが亡くなられます。遺作は『少年とこだぬき』(92年)。日本の人形アニメーションの基礎を創り出し、日本と中国の架け橋となった大人物の死。しかしテレビ、映画、そして海外からのアニメーションが盛り上がる中で、まだ当時アニメーション制作を始めたくらいの00年代の学生にとって、持永さんの功績を知ることのできる機会は多くありませんでした。

 

 また、川本さんについても、80年代から90年代はNHK人形劇『三国志』『平家物語』の時代であり、人形アニメーション作品は『いばら姫またはねむり姫』(90年)以降、『冬の日』(03年)までの間にはアブソルート・ウオッカの企画で制作された1分の作品『李白』(96年)のみでした。

 

 人形アニメーションは、その黎明期を作り上げた持永さん・川本さんという作家の時代から、50年代後半から60年代生まれの作家の時代へと、この90年代に大きく転換点を迎えたのではないかと思います(一方で、00年には東京都写真美術館において日本アニメーション協会が主催した「日本の人形アニメーション展」が行われました。そこでは持永作品、岡本作品のほか、高橋克雄さん、神保まつ江さんといった方々の作品も上映されています)。

 

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