東アジア文化都市2019豊島マンガ・アニメ部門スペシャル事業

マンガ・アニメ3.0

持永只仁・川本喜八郎から「リラックマとカオルさん」まで
――日本の人形アニメーション史を探る細川晋

00年代

 90年代後半から00年代の学生――80年代に幼少期を過ごし、(持永・岡本・川本作品よりも)海外のアニメーション映画や、テレビを中心に活躍する当時の若手・中堅作家の作品から人形アニメーションを知る機会の多かった世代――は、それまでにはない新しい作り方をはじめるようになりました。パソコンが高校や大学の授業にも導入され、徐々に学生個人でも購入ができるようになったためです。

 

 90年代後半の東京藝術大学の卒業制作展には、奥田寛さんの『8番目の囚人』、喜田夏記さんの『FOUNDER OF ELEMENTS』といった人形アニメーションがありました。当時、東京藝大には現在のような大学院アニメーション専攻はありませんでしたが、定期的にアニメーション作品が作られていました。2000年には村田朋泰さんが『睡蓮の人』を発表し、02年に『朱の路』を制作して大学院を修了。03年にMr.Childrenの『HERO』MVを制作します。村田さんは2000年代に学生アニメーションが各地で本格的に湧き上がる直前に現れた作家といえるわけですが、同時代の学生たちの作品に大きな影響を与えたと思います。

 

 1998年、多摩美術大学グラフィックデザイン学科の授業カリキュラムに4つのコースが誕生、当時非常勤講師だった片山雅博さんによるアニメーション教育が始まります。片山さんは「グループえびせん」のメンバーとして80年代の自主制作ムーブメントを牽引した一人であり、日本漫画家協会や日本アニメーション協会事務局長を歴任。多摩美ではのちに「タマグラアニメ」と呼ばれることになる、独自のアニメーションスタイルを作りあげました。2011年に56歳の若さで逝去。その意思は野村辰寿さんに引き継がれて今に至ります。

 

 2001年、東京造形大学に森まさあきさんが着任。2003年には同大学にアニメーション専攻が誕生します。同じく2003年には東京工芸大学にもアニメーション学科が設立。50年代、60年代生まれの作家たちが教育の現場に入るとともに、大学内のアニメーション制作環境も整備されていきました。東京造形大学からは今ではキューライスとして知られる坂元友介さんが、森まさあきさんの指導のもとで『蒲公英の姉』(08年)といった人形アニメーション作品を制作しています。

 

 インターネットでの発表がまだメジャーではないなかで、「NHKデジタル・スタジアム」やラピュタ阿佐ヶ谷での「ユーリー・ノルシュテイン大賞」、「インター・カレッジ・アニメーション・フェスティバル(ICAF)」など、サークル活動ではない形で学生や若手に様々な発表の場が改めて設けられていったのも00年代初頭のことです。

 

 また、人形アニメーション撮影を補佐するLunchBoxの後継機LunchBox syncが発売され、高額ではあったものの撮影のための苦労が一つ減りました。

 

 2003年は大きな年でした。合田経郎さんの『こまねこ』が「過程を見せる展覧会 。“絵コンテの宇宙 − イメージの誕生”」で公開撮影(アニメーターの作業風景を壁に開いたのぞき穴を覗くことで見ることができる)という珍しい方法で制作されました。アニメーターは峰岸裕和さん。加えて川本喜八郎さんが国内外のアニメーション作家に声をかけて制作した連句アニメーション『冬の日』が公開されます。手描き、CGなど様々な技法で作られた作品には、浅野優子さん、石田卓也さん、伊藤有壱さん、保田克史さん、森まさあきさんといった人形(クレイ)アニメーション作家も参加しています。

 

 2004年、川本喜八郎さんが『死者の書』の制作に取り掛かります。そこでスタジオとして白羽の矢が立ったのが、川本さんが当時情報デザイン学科で客員教授を務めていた多摩美術大学でした。同大学のメディアセンターで撮影された本作では、アニメーターの及川功一さんや内藤揚子さんといった60年代の人形アニメーションを知るアニメーターの方々に20歳代の若手も加わり、幅広い年代のスタッフで撮影が行われました。川本さんによる学生向けのワークショップが行われるなど、技術はそこで90年代を飛び越えて若手に引き継がれていくこととなりました。

 

 なお、著者は大学院2年生だった2003年に、多摩美術大学大学院で指導をしてくださった片山先生の紹介で川本さんと初対面し、翌04年春、完成した著者初の人形アニメーション『鬼』(修了制作)を川本アトリエに送りました。その後、感想のお手紙をいただき、8月の大規模セット撮影から『死者の書』にアニメーターとして参加しています。また、拙作『鬼』はその年に行われた第10回広島国際アニメーションフェスティバルにてデビュー賞をいただくことができました。グランプリは山村浩二さんの『頭山』でした。

 

 2005年は、こぐまあつこさん、石田卓也さん、キムラヒデキさん、土田ひろゆきさんが『クレイアニメ太鼓の達人』を制作。そして栗田やすおさんによる『緑玉紳士』も公開、個人で制作した長編アニメーションとして話題となりました。

 

 2006年には合田さんが『こまねこ』の劇場作品版を制作します。その現場にも土田ひろゆきさんら当時20代の若手が複数参加しており、主要なアニメーターを務めた峰岸裕和さんや大向とき子さんから技術は伝承されていきました。そこには伊藤有壱さんの現場でもアニメーターを務めていた野原三奈さんも参加されています。

 

 『死者の書』や『こまねこ』は若手を現場に多く呼び込み、幅広い年代層で挑むことにより、現在に至る人形アニメーションの技術の継承と拡散に大きく寄与した作品だと考えられます。『こまねこ』は制作現場をネット中継で配信したことも特筆すべきことです。さらにこの年は他にもBUMP OF CHICKEN『人形劇ギルド』(アニメーター:オカダシゲルさん)や内藤まろさんの『ステファン』なども制作されています。また、持永只仁さんの自伝『アニメーション日中交流記――持永只仁自伝』(東方書店)が発売された年でもあります。

 

 2007年には眞賀里文子さんを校長に迎え阿佐ヶ谷に「アート・アニメーションのちいさな学校」が設立。持永さんの死後12年を経て、仕事現場とは別のかたちでアニメーションや人形制作などの技術が次の世代に引き継がれる場ができました。

 

 2008年には東京藝術大学大学院にアニメーション専攻が誕生。伊藤有壱さんが教授のひとりとなり、人形アニメーション制作に打ち込む学生が継続的に登場するようになります。大学だけではありません。伊藤有壱さんの主宰するI.TOONで仕事経験を積んだ人材は数多く、現在様々な現場で活躍しています。

 

 この頃には教育機関でのアニメーション制作は一般的なものとなりました。オカダシゲルさんのサイト「パペットBOX」などインターネット上での情報発信もすでにあり、メイキング資料に乏しく理解の難しかった人形アニメーションの技術を知る機会はだいぶ増えました。

 

 2009年はスタジオプラセボによるNHKプチプチアニメ『エディ・ザ・ファーストブレイク』が発表されます。中田秀人さんによる『電信柱エレミの恋』もこの年でした。さらに村田朋泰さんは作品『家族デッキ』を発表。『こまねこのクリスマス ~迷子になったプレゼント』も公開されました。

 

 しかし何より09年は武蔵野美術大学在学中だった竹内泰人さんの『オオカミはブタを食べようと思った』がYouTubeで話題になったことが大きなインパクトだったと思います。ニコニコ動画やYouTubeなど、00年代中盤以降は、発表の場が上映会や映画祭だけから大きく変化していった時期だったと言えます。

 

 そのように時代が変化していく最中の2010年、川本喜八郎さんが亡くなられます。死の直前まで精力的に働かれ、絶えぬ創作エネルギーを内包したまま旅立たれました。まだまだ作りたい作品がありました。筆者は07年に開館した長野県飯田市の川本喜八郎人形美術館の人形展示に初回展示替えから現在まで関わるほか、今夏開催された東京国立博物館の「三国志展」の人形展示なども行なっていますが、川本さんご本人との最後の仕事は、亡くなられる直前の第13回広島国際アニメーションフェスティバルにおける人形展示でした。川本さんの手で生み出された人形は今、川本喜八郎人形美術館以外に、渋谷ヒカリエの川本喜八郎人形ギャラリー、下関の「関門海峡ミュージアム海峡ドラマシップ」に展示されています。

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