東アジア文化都市2019豊島マンガ・アニメ部門スペシャル事業

マンガ・アニメ3.0

アニメはどう語られてきたのか(後編)
――氷川竜介が語る、人はなぜ感動するのか、
その感動の原点をいかにして残すのか氷川竜介インタビュー

アニメ研究において踏まえるべきこと

 

――また2014年から明治大学大学院国際日本学部で教鞭を執られるようになったことも、公共性への意識の帰結の一つだと思います。どのような目標を定め教えられているのでしょうか。

 

氷川 商業アニメはキャラクター性と物語性が強いメディアです。だから作品を観終わると、キャラとストーリーしか覚えていない人も多い。アニメーションのもたらす情動、光や音の心地よい起伏に身を委ねていたときは、脳の中で違う現象が起きていたはずです。夢から覚めたように、最も肝心な体験性が抜け落ちてしまう。だから、キャラと物語以外の要素も「言語化」できるような方法論を伝え、そこから自主的に大学院での研究を深めてもらえないかと、そんなことを目標に据えています。

 

――具体的な講義内容は?

 

氷川 秋学期は「アニメマエストロ」に近い「アニメ表現論」を教え、今話した要素分解をしています。春学期の「アニメビジネス通史」では、1963年の『鉄腕アトム』から拡大したビジネスとその変遷を中心としたアニメ史を語っています。基本的に年代順で毎回5年刻みですが、ビデオ、LD、DVD、Blu-rayなど視聴環境の変遷と80年代の海外合作は別項目にしています。
 特に海外合作は、重要です。アニメの年表ではTV、映画、OVAの3本柱に分けられていて、80年代中盤にビデオデッキの普及とともにOVAというメディアが生まれ、そこから新時代が始まったと読めてしまいます。しかし、現実はそんなに単純ではありません。OVAが出始めた頃は多くの会社が海外との合作に没頭していて、実情は下請けの業務委託なので権利や記録があまり残っていません。製作が難航した『NEMO/ニモ』(1989)や日本国内では公開されなかった『トランスフォーマー ザ・ムービー』(1986)など、よく知られている事例が一部あるぐらいです。海外合作は出崎統監督、大塚康生さんなどベテランが手がけることも多く、国内は手薄になったはずです。それでやる気のある若手に、監督や企画をするチャンスが生まれた。いわゆる「暴走作画」も含め、前例のないところから過去に囚われない新しい作品が生み出され始めた。初期OVAのあの奔放な感じは、海外合作によって国内が手薄になった結果として生まれたものなのです。

 

――海外合作とOVAとの因果関係は、触れられる機会の少ない話題です。

 

氷川 「日本のアニメの年表だけを見て研究するのは大間違い」というのは、特撮からの影響含めて言っていることです。ちなみに海外合作ブームは80年代後半、急激な冷え込みで終焉を迎えました。その理由も体感でわかっています。1987年、アメリカへ7ヶ月間長期出張し、日本では観られない大量の合作作品を鑑賞しているのですが、その間、円高が急速に進んでいく。現地でのドル建ての日当が、日本に帰って円に換えたら、出発前換算から2割も減ってしまったんですよ(笑)。仮に2千万円の制作費だとしたら、4百万円消えることになる。2クールで1億円消えるなら、続けられるわけがない。

 

――円高によって海外合作の旨みがなくなってしまったわけですね。

 

氷川 はい。こうした事例を代表に、アニメはマンガや小説とは違う成立事情を多々持っています。最も異なるのは集団作業だということですが、その集団を支えるために巨費を要することは、なぜかスルーされがちです。資金の取り回しが、作品の傾向や内容にも深く関わってくる。社会情勢の影響も受けやすい。OVAはアニメの中でも作家性が高いメディアとされていますが、研究する際には、特にどういったビジネス状況で生み出されたものかという外的要因や、深夜アニメとの繋がりを考える必要があるわけです。アニメだけでなく、特撮やゲームをはじめとする周縁の文化が時代の中でどう興亡し、どのように関わってきたのか、相互作用も知る必要があります。作品の中身だけではなく、多様な観点を持つことの大切さを学んでほしいと思っています。

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