東アジア文化都市2019豊島マンガ・アニメ部門スペシャル事業

マンガ・アニメ3.0

知られざる中国アニメーション史(後編)
――中国人研究者が語る、動漫、万兄弟、現代の課題陳龑インタビュー


歴史から消されたアニメ制作者たち


――日本におけるアニメーション元年は1917年とされていますが、そこでは下山凹天、北山清太郎、幸内純一の3人がほぼ同時期に制作を開始しています。同様に、中国アニメーションの黎明期においても、万兄弟や梅雪儔以外の活動はなかったのでしょうか。


 中国のアニメーション史にはほぼ残っていませんが、本当はいました。それもまた、「英米煙草公司」という現在も存在する、海外資本の会社なんですよ。英米煙草公司には、タバコのCMを作るための映像部があり、そこではアニメーションも手がけていました。最初のアニメーション作品は、1923年に制作されたタバコのCM『暫停』。しかしこれを認めてしまうと、中国アニメーション史の最初期に、海外資本で作品が生まれ落ちたことになってしまうためでしょうか、歴史からは消されてしまっています。


――資本は海外とのことですがスタッフは?


 雇われた中国人です。『暫停』は楊左匋(ヤン・ゾ―トウ)という中国人マンガ家がアニメーターを担当しています。彼はその後、アニメーションについてより深く学ぶため、アメリカのアート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨークへ留学し、そこで手がけた学生作品がディズニーの目に留まり、世界初の長編アニメーション映画である『白雪姫』(1937)にも参加しています。Cyrus Youngの略、"Cy" Youngという英語名でクレジットされているのが彼ですね。

 楊左匋はスペシャルエフェクト、特に水などの自然描写を得意としていました。抽象的なものを線によって表現する「白描」という中国画の伝統技法が影響しているのかもしれません。『ファンタジア』(1940)ではスペシャルエフェクト部門のトップとして活躍し、クレジットでは一番上に表記されています。しかし彼の名前も、中国のアニメーション史ではなかったことにされています。


――国としても誇れる活躍と思いますが、なぜなのでしょう? 英米煙草公司に関わっていたから?


 それもありますし、何より彼は、アメリカ国籍を取得して中国に戻らなかったんです。また1942年にディズニーのストライキ問題により退社してからは、アメリカ軍に入隊し、戦闘機の迷彩を描いたとされています。
 ディズニーにはほかにも中国人アニメーターが働いていました。最も有名なのは『バンビ』に参加した黃齊耀(タイラス・ウォン)です。ただし、彼は違法移民で、ディズニーの正式な社員ではなかったため、長い間その存在は知られていませんでした。その時代のアメリカにおける、アジア人に対する強烈な人種差別もあったのだと思います。ただその後もアメリカで長年にわたりアーティストとして活躍していたこともあり、90歳になったときには、ディズニーが特別に展示会を開いてくれました。


――政治的観点から抹消された作家はほかにもいるのでしょうか?


 程度は様々ですが、数多く存在します。たとえばアニメーターの銭家駿(チェン・チァチュン)もその一人です。彼は優れたアニメーションを手がけていただけでなく、「動画」という言葉を中国ではじめて提唱した人物でもあります。それまでは「カートゥーン」の音訳である「卡通」がアニメーションの訳語として用いられていましたが、1946年頃の新聞に、「動画」という言葉を提唱する彼の文章が残されています。
 しかし現在のアニメーション史ではそのことには触れられていません。(共産党と対立する)国民党との関係が深かったためです。そのため一般には、中国でアニメーションを「動画」と呼ぶようになったのは、1950年の第一次文化代表者大会でのディスカッションによるものだとされています。


――日本で「動画」を提唱したのは政岡憲三とされていますが、何かそことの関係はあるのでしょうか?


 その可能性もあります。当時の中国には多くの日本人がやってきていましたからね。中国の研究者の間では、政岡憲三さんのもとでアニメーション制作に携わっていた持永(只仁)さんが「動画」を広めたのではないか、という意見もあります。
 確かに、持永さんは満州映画協会に参加していて、第二次世界大戦後も中国に残り、上海美術映画製作所の設立に多大な貢献を果たした人物なので、その考えもわかります。ただ自伝『アニメーション日中交流記――持永只仁自伝』(東方書店、2006年)や長女の持永伯子さんへの個人的な聞き取りによると、持永さんが広めた言葉ではないのではないか、と私自身は考えています。

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