東アジア文化都市2019豊島マンガ・アニメ部門スペシャル事業

マンガ・アニメ3.0

知られざる中国アニメーション史(後編)
――中国人研究者が語る、動漫、万兄弟、現代の課題陳龑インタビュー

 近年、大きな盛り上がりを見せつつある中国のアニメーション・シーン。しかし、その存在感の高まりに比して、中国アニメーション史に関する知見は、日本ではほとんど知られていない状態にある。中国のアニメーションは歴史的にどのような発展を遂げ、日本とどのような関係を取り結び、そして歴史研究はどのような状況にあるのか。

 そこで今回は、北京大学を卒業後、日本に留学し東京大学大学院でアニメーション史を研究中の陳龑さんに、中国アニメーション史・研究の最前線についてお話をうかがった。この後編では、政治的に隠蔽されてきた中国アニメーション黎明期の知られざる歴史を中心に紐解いてもらう。

聞き手:高瀬康司、土居伸彰、構成:高瀬康司、高橋克則

中国アニメの創始者・万兄弟の知られざる歴史


――(前編での)概略のご説明ありがとうございます。そうした中で、陳さんはどのような研究をされているのでしょうか。


 修士論文では中国アニメーションの黎明期である1920年代から45年までをまとめました。今年度提出予定の博士論文では、さらにその後の歴史まで含めてまとめています。ただ一次文献から総当たりで探っているので、作業量が膨大で時間がかかっています。


――中国での先行研究はないのでしょうか?


 あるにはあります。1990年代後半には、政府の意向でアニメーション史の研究が進められていましたから。ただし内容は、民族主義的な傾向が非常に強いものでした。その象徴が、「中国のアニメーションは海外からの影響を一切受けずに、万兄弟がすべての基礎を作り上げた」という主張です。しかしすぐにわかる通り、万兄弟の『西遊記 鉄扇公主の巻』の作中にも、ミッキーマウスやベティ・ブープにそっくりなキャラクターが出ていますよね(笑)。また初期アニメーションは現存していない作品が多いため、研究書にもかかわらず、観ないで書いたと思われる記述がたくさんあったりする。

 そんな状況だったので、過去の研究を参照するのではなく、当時の新聞や雑誌などの一次資料から自分で徹底的に調べ直すようにしました。たとえば清の末期から中華人民共和国が建国されるまで上海で発行されていた新聞『申報』などから、万兄弟やアニメーターに関するニュースを漁りました。またそれまでのアニメーション史では、万兄弟を神格化している割に創作ユニットのようにまとめて扱っていて、何人兄弟なのかさえ具体的には書かれていないような状態だったんですね。そのため修士論文では、兄弟一人ひとりの功績を分けて考えることを重視しました。


――日本では万兄弟というと長男の万籟鳴(バン・ライミン)氏が有名です。『西遊記 鉄扇公主の巻』の監督であり、子ども時代にそれを観て感動した手塚治虫さんが、1980年に訪中した際に対面したエピソードは、『手塚治虫物語 ぼくは孫悟空』(1989)というアニメ作品内でも描かれています。


 中国でも万兄弟の中で最もアニメーションに貢献した人物は長男の万籟鳴だとされてきました。しかし実際に『鉄扇公主』の制作を主導したのは万籟鳴ではなく、次男(双子の弟)である万古蟾(バン・グチャン)だったんですよ。そもそも万兄弟の中で最初にアニメーションを手がけたのも万古蟾でした。だから手塚先生は、とても残念なことに、違う万兄弟と会ってしまっていたんです。


――その情報は驚きです。


 1900年頃の中国は子どもの数が多かったので、長男はあまり学校に通わせず、早めに仕事に出して家計を助けることが多かったんですね。そのため万籟鳴は中国式の塾のような学校で伝統文化を少し学んだだけで、18歳のときにはすでに上海で『良友』という画報の雑誌社で編集者をしています。そのうえマンガ家としても活躍していたので、アニメーションに参加する時間はあまり取れなかったんですよ。本格的に関わるのは1930年代以降になってからで、『鉄扇公主』の制作中もほかの仕事を抱えていたので、現場の中心は次男の万古蟾でした。


――ではなぜ万籟鳴氏の功績とされているのでしょうか。


 中国では父親が亡くなると長男が一家の主となりますし、次男の万古蟾がとても内向的な人物だったというのも関係しているでしょうね。もちろん長男の万籟鳴は、芸術性も技術力も確かで、人柄もよく、その後も傑作を作り続けましたから、高い評価を受けて然るべき作家です。しかし過去の業績まで万籟鳴のものだと勘違いされてしまっている点は、訂正される必要があるはずです。

 なお、次男の万古蟾は教会学校に通っていたため西洋画に触れる機会があり、英語も学んでいました。また当時は西洋の発達した技術や芸術を取り入れる「西学東漸」と呼ばれる思想が盛んで、彼はその運動の流れの中で育ったこともあり、西洋文化に抵抗がなく、むしろ憧れを持っていたんですね。それもあって、卒業後は帰国華僑が立ち上げた映画会社である「長城画片公司」に入社して、万籟鳴より早くアニメーションを手がけることになります。

 ここで問題になるのは、長城画片公司の設立者である梅雪儔(メイ・シューチュオ)という人物です。実は彼はアメリカ在住経験があり、道化師ココやベティ・ブープを生み出したフライシャー兄弟のスタジオにインターンしていた経歴の持ち主なんですよ。その後フライシャーから撮影機材を購入して帰国し、映画やアニメーションでビジネスをするために会社を立ち上げます。


――つまり中国アニメーションはその発端から、海外の影響が色濃かったわけですね。


 そうなんです。さらに言えば持永(只仁)さんが満州映画協会に持ち込んだのも日本のアニメーションの作法ですから、外国の影響がなく「ゼロから作り上げた」とはとても言えない状況なわけです。

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