東アジア文化都市2019豊島マンガ・アニメ部門スペシャル事業

マンガ・アニメ3.0

演出家が振り返る東映動画(前編)
――黒田昌郎が語る、小田部羊一や高畑勲らと歩んだ日々黒田昌郎インタビュー

 2019年は、東映動画への注目が高まった年であった。国立近代美術館での「高畑勲展 日本のアニメーションに遺したもの」、そしてアニメーションスタジオを舞台にした朝の連続テレビ小説『なつぞら』の放送――。
 『なつぞら』のヒロイン・奥原なつが、高畑勲監督と同期入社の伝説的なアニメーター小田部羊一氏の妻であり、女性アニメーターの先駆でもあった奥山玲子氏がイメージの源泉となっていることは、今では広く知られているだろう。関連する書籍や記事を目にした人は少なくないはずだ。
 ただし、小田部氏と同期入社の演出家が、『太陽の王子 ホルスの大冒険』(1968)の高畑監督だけでないことを忘れてはならない。『空飛ぶゆうれい船』(1969)『どうぶつ宝島』(1971)の池田宏監督、そして『ガリバーの宇宙旅行』(1965)の黒田昌郎監督という両巨匠のことである。
 ことに黒田監督は、『なつぞら』へも「時代風俗考証」として関わり、アニメーター陣からは見えづらかった側面まで、演出というすべてのセクションを統括する立場から、当時の東映動画・アニメーション業界の姿を監修する役割を果たした。
 今回はそんな黒田監督に、原画・動画、彩色にとどまらない、撮影から録音、編集まで含めた、演出家の目線で見た当時の東映動画の姿を存分に語ってもらう。

 

聞き手:原口正宏、高瀬康司、構成:高瀬康司、高橋克則

フィルム/セル画時代の苦労


――黒田さんは1959年、東映動画に演出助手として入社されました。高畑勲さん、池田宏さんと3人が同期であることはよく知られています。


黒田 もともと演出助手は私たち3人だけではなく、もっと大量に採用されていたんです。10人ぐらいはいた気がしますね。しかし製作課長の塩崎博さんが「年に1本しか作品を作らないのに、こんな多勢はいらない」と、一部を別の部署へ回すことになって。たとえばのちにトップクラフトを立ち上げる原ちゃん(原徹)は企画へ、のちに美術家になる小川一衛さんはコマーシャルへと、配属を変えられたんです。翻訳家になった中村凪子さんもその一人ですね。もし彼女が演出助手のままであれば、日本初の女性演出家になっていたかもしれません。


――大量の採用者の中から、どのように人数を絞っていったのでしょうか?


黒田 1ヶ月に1~2回のペースで課題が出されていたので、それで適性を見ていたんだと思います。「短編漫画映画の企画案を三つ書いてこい」という課題のときは、西部劇のキャラクターを動物に置き換えた企画などを好き勝手に書いて、塩崎さんに見せに行った記憶があります。「こんなにたくさん来ても面倒見切れないよ」と困り気味でしたが(笑)。


――課題の中で、実際に映像化された企画はあったのでしょうか?


黒田 ないですよ(笑)。企画案と言っても、作品にするつもりなんて最初からないんです。単に訓練としてやらせていただけで、提出したら「よくがんばったね」でお終いでした。読んだかどうかもわかりません。感想も言われませんでした。


――演出助手としての研修はあったのでしょうか?


黒田 仕上げや撮影、編集など別のセクションの仕事を一通り試しはしました。もちろん素人に制作中の作品を触らせるわけにはいかないので、ミスをしても問題のない素材を使った職業体験レベルでしたが。仕上げ課で指導してくれたのは、のちの大塚(康生)夫人である本橋文枝さんで、当時はトレーサーでした。私は色塗りをやらせてもらったんですが、本来絵の具はセルの裏から塗るのではじめに裏面をきれいに拭くところを、私はセルの表面をゴシゴシ拭いてトレスの線を消してしまった(笑)。


――セル画時代らしいエピソードですね(笑)。


黒田 編集も当時はフィルムですから、今とは作業がまるで違いました。カットとカットをつなぎ合わせるためには、前カットの最後のコマと次のカットの頭のコマの接続部分の端を約1mm幅に西洋ナイフで削って、アセトンという溶剤を塗ってつなぎ合わせなければいけなかったんです。接着が甘いと映写中に「パン!」と大きな音がしてフィルムが切れてしまうし、逆にアセトンをつけすぎると溶液がフレームの中に侵蝕して使いものにならなくなってしまうので、ちょうどよく貼り合わせなくてはいけない。失敗したら上役のカミナリが飛ぶものですから、必死に訓練しましたよ。
 それでも『西遊記』(1960)の予告編のときは失敗してしまって大変でした。私がフィルムをつなげる作業を任されたんですが、ナイフで削るときに1コマ駄目にしてしまったんです。それでもう一度、ネガフィルムからそのコマの周辺部分のみをポジフィルムに起こし直す許可をもらうために、演出の藪下泰司さんのところへ頭を下げに行ったことを今でも覚えています。大変無駄な費用がかかってしまいますから。


――予告編一つとっても様々な苦労があるのですね。


黒田 ええ、次作の『アラビアンナイト シンドバッドの冒険』(1962)では私が予告を担当したんですが、同じようなミスをされてはたまらないので、フィルムを削る作業まで自分でやりましたね。


――東映の予告編は、実写映画でもアニメーションでも文字演出がオーバーですよね。『シンドバッドの冒険』では「スリル! 夢! 恋!」といった本編とは異なる雰囲気の惹句が使われていますが、上層部からの指示でそうなっていたのでしょうか?


黒田 あの作品の場合は、ほかの予告編を参考にしながら、「こんな文字を入れておけばいいだろう」と見よう見まねで作っただけですね。文字自体は専門のタイトル屋さんが書いていて、文字が起きたり飛び出したりする処理は、東映本社の撮影所で撮りました。惹句の文字を拡大・縮小するには、黒バックに白文字のタイトル板に向かい、撮影機の載った台車をレールに乗せてTB(トラックバック)/TU(トラックアップ)するんですが、撮影所のセット脇にはそれ専用のレールがあったんです。


――そうなんですね。ほかにも新人の頃にされていたことはありますか?


黒田 会社の命令でディズニーの参考書を翻訳させられたこともありました。私と原ちゃんの二人で取りかかったんですが、かなり分厚い本だったので1~2ヶ月ほどかかってしまって、400字詰めの原稿用紙が束になるほどの量になりました。


――アニメーターの参考資料作りということでしょうか?


黒田 上役はそこまで考えていませんよ。実際、動画課長の島田太一さんに渡したら全部なくされてしまいましたから(笑)。きちんとチェックを重ねれば出版することもできたと思うんですが、そういった動きは一切ありませんでした。


――翻訳までされていたというのは驚きです。本当に様々な経験をされていますね。


黒田 東映としては演出助手の新人を採用してみたはいいものの、何をやらせればいいのかわからず手をこまねいていた、というのが実情なんでしょう。作品に参加するまでの半年から1年ほどは、何かしらの課題をやらされながら、だんだんと人数が絞られていって、最後に残ったのが私と高畑と池田の3人だったわけです。でもそのお陰で、その時期にディズニーに関する知識を得ることができました。

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