東アジア文化都市2019豊島マンガ・アニメ部門スペシャル事業

マンガ・アニメ3.0

日本と韓国で並行する2本の道
――韓国インディペンデント・アニメーション界の先駆者に聞くアン・ジェフン+片渕須直 対談

 2019年7月27日にシネ・リーブル池袋にて、東アジア文化都市2019豊島のパートナーシップ事業「韓国アニメーション上映会 夢見るコリア・アニメーション2019」で、アン・ジェフン監督の『にわか雨』が上映され、その後のトークショーではアン監督とともに、『この世界の片隅に』(2016)の片渕須直監督が登壇した。

 今回は、そのイベントレポートに続き、アン監督のインタビューを、片渕監督との対談形式で掲載する。アン監督のバックグラウンドや韓国のアニメーション・シーンの変遷はもとより、それぞれがまったく別の場所で活動を行っているにもかかわらず、日常の機微の描写をめぐるこだわりや、歴史資料の徹底した調査・考証など、通じ合うところの多い両監督に、それぞれのスタイルを支える方法論から、現在のシーンにおける立ち位置まで、第一線で活躍するクリエイターの視点で語り合ってもらった。

 

聞き手・構成:高瀬康司、野村崇明

変化する韓国のアニメーション・シーン


――今回はアン・ジェフン監督に、韓国のアニメーション・シーンの変遷や、その中でのご活動についてうかがえればと思います。またそれにあたり、トークショーから連続して、急遽、片渕須直監督にもご同席いただけることになりました。せっかくの機会ですので、片渕監督からもご質問を投げかけていただき、お二方の対談形式で進行していければと思います。それではまずはじめに、アン監督の簡単なご経歴をうかがえるでしょうか。


アン もともとはアニメーション作家ではなく、詩人・作家を志していました。自費出版で詩集を出したこともあります。ただそれではお金を稼げないので(笑)、アニメーションで生計を立てながら詩や小説を書こうと思い、日本やアメリカのアニメーションの下請けをやるスタジオでアニメーターとして働き始めました。しかしそうするうちに、だんだんと自分自身のアニメーション作品を作ってみたくなってきたんですね。それで1998年、ハン・へジンと共にスタジオ「鉛筆で瞑想」を立ち上げて、自分の作品を手がけるようになりました。


――その当時と現在とでは、韓国のアニメーション・シーンに何か変化を感じますか?


アン 私がスタジオを立ち上げた当時はまだ、韓国の国産アニメーションの歴史というものがなく、先輩と呼べるような人もいませんでした。それに比べると今は、独自の作風を持つ若手作家が多数出てきていますし、そういう人たちを、今通訳をしてくれている韓国インディペンデント・アニメーション協会(KIAFA)事務局長のチェ・ユジンさんらが、映画祭など国際的な舞台できちんと紹介してくれる、という流れもできています。それに私がスタジオを立ち上げたときは、「自分自身のアニメーションを作れる」というだけでうれしかったのですが、今の作家たちは積極的に自分の色を出しながら作っていて、それはいい傾向だと思います。


片渕 作り手が、自分の作りたいアニメーションを作れることは本当に素晴らしいことだと思います。けれども、それを行うためには経済的な問題をクリアする必要がありますよね? アン監督はその点、どうされているんでしょうか。


アン 私の場合、自分の作品を手がけるようになったのが、ちょうど韓国政府が産業としてのアニメーションだけでなく、個人作家に対しても補助金を出そうとしていた時期だったので、それに助けられました。
 ただ、近年の制作支援制度はまた産業向けに変わってきてしまっています。その代わり、近年は私の活動を応援してくださる企業や個人の投資家の方からご支援をいただけるようになり、そのおかげで制作を続けることができています。


片渕 なるほど。長年活動を続けられてこられた結果、アン監督を応援し支えてくださる方が生まれたわけですね。


アニメーションが繋ぐコミュニケーション


――続いて作品についてうかがわせてください。まずアン監督のアニメーションには、コミュニケーションがうまくいかない場面がよく出てくるように思います。


アン それは、今のように真面目な話をしているときにも、唐突に変な冗談を言ったりする、自分の普段の癖が影響しているのだと思います(笑)。たとえば囲碁には、相手がこう石を置いたら自分はこう置くべきという定石がありますが、私はあえて、少し先を読みながらほかのところに置くというのをよくやるんですね。


片渕 直接的に返さないということですね。将棋の桂馬飛びのように返すコミニュケーション。


――一方で、日本版パッケージも発売されている長編『Green Days〜大切な日の夢〜』(2011)には、主人公のイランが耳を塞ぐことで、聴覚障害を持つチョルスの父親とコミュニケーションができるようになるというシーンがあります。言葉がわからないチョルスの父親と手話のわからないイランという、普通ならコミュニケーションできないはずの2人が、不思議な方法で通じ合うのが印象的でした。


アン 一緒に仕事をしているスタッフの中に聴覚障害者がいるのですが、手話ができなくても何となくコミュニケーションが取れるんですね。片渕監督と話をしていても、日本語ができないのに何となくおっしゃっていることがわかるような気がします(笑)。『Green Days』のそのシーンはフィクショナルではありますが、そうした体験をもとに描いています。


偶然性と資料調査


――また先ほどのトークショーの中で、制作にあたっては「俳優を雇い、その演技をもとにアニメートしている」というお話がありましたが、実際の人間の動きを取り入れるのであれば、ロトスコープを用いるという方法もありますよね。


アン アニメーションというのは、現実の人の動きの中から、アニメーターの感性や技術によって、いくつかの特徴的な要素を抽出して描かれるものだと私は思っています。特にアジアのアニメーターはアメリカなどと違い、3コマ打ちがベースなので絵の枚数が少ないにもかかわらず、ポイントを的確に拾い上げることで実在感のある動きを生み出している。それに対してロトスコープでは、アニメーションにとっては余計な動きの情報まで、すべてが入り込んでしまいます。


片渕 アン監督は先ほどのトークで「アニメーションは画面のすべてが統御されている」とおっしゃられていました。それに対して、「俳優を雇い演技の参考にする」というのは、アニメーターの頭の中だけでは発想できない「偶然性」を拾い上げるため、という狙いがあるのではないかと受け取ったのですがどうですか?


アン 実際の人間の仕草や演技を徹底的に観察することで、はじめて描き出すことができる動きがあるということですね。


――言葉は違えど、近い感覚を語られているように思います。片渕監督の作品では、徹底的な資料調査を通じて、そこから作り手の想像が及ばない「偶然性」を拾い上げているわけですよね。


片渕 そうですね。


――アン監督もやはり、『そばの花、運のいい日、そして春春』(2014)の際には、1920年代、30年代の京城府(現在のソウル)の街並みを再現するために莫大な資料を調査されたとうかがっています。


アン そもそも20-30年代の韓国にはカメラが普及しておらず、当時の写真資料はほとんど残存していません。そのうえ、たとえばヨーロッパであれば、写実的な風景画を描くことで後世に当時の様子が残りますが、韓国では山水画のような抽象的な表現が主流だったので、当時の街並みや風景を確認できる絵がとても少なかった。
 建築物も同様です。ヨーロッパであれば長期にわたって人に見られるという意識でもって大きな教会や聖堂などが作られていたと思うのですが、韓国の場合は自分が住むことが目的なので、当時のままの形で現存するものはほとんどありません。
 ですのでネットや図書館、博物館など様々な場所で資料を調査したのはもちろん、一般の家庭に眠っている写真を探すといったこともしました。一番役立ったのは、外国人が韓国に来たときに撮った写真です。あれにはとても助けられました。


片渕 そこは『この世界の片隅に』も同じでしたね(笑)。舞台が呉という日本の軍港だったので、戦時中は軍事機密として写真が撮れなかったんです。だから日本には写真資料がほとんどなかった。けれども、戦後に占領軍としてやって来たオーストラリアの兵隊たちが写真をたくさん撮っていったことで、向こうには大量に残っていたんです。

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